「大乗の至極、浄土真宗3 願いの実現」

「大乗の至極、浄土真宗3 願いの実現」

親鸞聖人は、9歳の時に、京都の青蓮院(今もあります)というお寺で得度をされました。その後、比叡山にて堂僧として法務および、修行に励まれたと伝えられています。その頃の記述はありませんので、比叡山でどのような生活をされておられたか分かりません。そして29歳のとき比叡山を下り、法然上人の下に向かいます。

 比叡山を下り、法然上人のもとへ向かったことを振り返り、少し難しいですが、

竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教(きょう)に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。(真宗聖典三九八頁)

と述べられています。

に昏くして真仮の門戸を知らず」とあります。親鸞聖人在世時の天台、真言をはじめとする聖道の諸宗派は形骸化してしまい、その実態は、教えに昏く真実と仮の区別もついていないとおっしゃっています。

その具他的な内容として、「行に迷うて邪正の道路を弁うることなし。」です。どういうことかというと、比叡山に登り、法然上人も、親鸞聖人も、自利利他円満を願っているにも関わらず、自分ひとり厳しい修行をすればするほど、反対に自己満足の驕りの心しか出でこない、厳しい修行をしている達成感、自己満足心により、厳しい修行をしていない在家の人を軽んじてしまう。自力の修行をすればするほど、憍慢の心が出てくる。それが自力無効です。自力の修行を励めば、励むほど、憍慢心を生み、かえって真実心から遠ざかるから、その自力心は全く無効であったということです。自力心こそが真実心から遠ざける根源であったということです。

聖道の諸宗派も念仏を取り入れていましたが、念仏は全ての者が救われる教えであるから、立派な修行ができない者のためにあり、低俗な教えであると見なしていました。立派な修行が出来る自分たちには必要がない、念仏は下等な者のための下等な教えであるとしていたということです。そこには驕りしかないわけです。それが「真、仮の門戸を知らず」です。しかし、法然上人は逆転の発想をもって念仏を捉えなおしたのです。上等な者も、下等な者も「共に、同時に、同じように」救われる教えであるから真実の道である、真実の教えである。ここに自利利他円満の願い成就の道を見出しました。

誰のための仏教なのか。その答えは、先ず、自分のためということがあります。それと同時に悩める一切衆生のためにあるということが、釈尊の、仏教の根本的な、一番の願いです。そこが抜け落ちると仏教からは自己満足と憍慢心しか得られないことになっていきます。

全ての者を救うという阿弥陀の本願こそが、自分も救われ、全ての他者が救われる自利利円満の願いを実現する教えである。だから阿弥陀の本願こそ大乗の至極である、真実の教えである。そこが浄土真宗開宗の基礎です。その確かめが肝心です。