「弥陀の本願③―命の光に背く悪人―」

「弥陀の本願③―命の光に背く悪人―」

ここまで阿弥陀仏の本願について確かめてきました。弥陀の本願の心は摂取不捨の心で、それは「選ばず、嫌わず、見捨てず」の心です。今、ここで、全ての者を救うということ、具体的には「命みな生きらるべし」という弥陀の願いであり、われわれにとっては「光の命を生きる者である」という形でその願は成就されています。

親鸞聖人は徹底して自己を「罪悪深重の凡夫」として見つめていかれます。

 罪悪深重とはどういうことでしょうか。

 お釈迦さんの幼少期の言い伝えの物語を「前生譚(ぜんしょうたん、ジャータカ)」といいます。お釈迦さんは王子として生まれ、贅沢な暮らしをしていました。そのお釈迦さんは従兄弟の提婆と森に遊びに行きました。そして提婆が白鳥を弓矢で射落としました。そして二人でかけつけましたが、お釈迦さんが先にたどり着き、その鳥を抱きかかえました。提婆は自分が射落としたのだから自分のものであると、だから返せ、と言うわけです。お釈迦さんはゆずりませんでした。そこで話しがつかず、国中の賢者を集めて、会議をしました。中々決着がつかないでいると、「命は愛そう、愛そうとする者のものであり、傷つけよう傷つけようとする者のものではない」という一言によって、解決したそうです。この話しは贅沢な暮らしをする王族の問題です。

では具体的に私の生活において「命は愛そう、愛そうとする者のものであり、傷つけよう傷つけようとする者のものでない」とはどういう事になるのかという問題です。命を傷つけるというのはどういうことなのでしょうか。結論的には、前号で少し触れましたが、自分の命と、人の命に価値をつけることです。命に価値をつけることが、自分で自分を傷つける生き方であり、そして自らが生きる事を困難にしている、それが悪人の問題です。

竹中先生が、何度も、こんなお話しをしてくださいました。学校から帰ってきた孫がおばあちゃんに対して「学校で、人の役に立つ者になりなさい、そうでなければ生きるに値しないと教えられたけど、おばあちゃんは役に立っているように思えない、なぜ生きているのか。」と言ったそうです。そして困ったおばあちゃんは孫にお小遣いをあげて、孫の役に立つ者になることによって生きることの意味、命の価値を回復したそうです。でも、お金が無くなればまた用無しになります。次は暴力で口をつぐもうとします。でも孫が成長すればその暴力も通用しなくなりもっと悲惨な目にあっている。そういう相談をされた先生は、「私の命の価値も、あなたの命の価値も、全く同じである」とはっきりと言う他に無いと言ったそうです。でもおばあちゃん自身も自分の命の価値を見出せていないので、なかなか言えない。そういうお話しを何度もして下さいました。どうでしょうか。学校で習って来た孫の言葉と、おばあちゃんの行動どう思われるでしょうか。

孫がひどいことを言ったように見えますが、おばあちゃんはお小遣いをあげることで自分の命の価値を得ようとしたわけです。自ら、命の価値をお金にすりかえたわけです。おばあちゃん自身、自ら命を傷つけようとする者になってしまったわけです。

命を傷つけることは、慢という言葉で教えられています。正信偈に「邪見慢悪衆生」とあります。自分の命を軽んじたり(卑下慢)、また、過大に誇る(慢)心です。要するに命に価値をつけることで、前述のおばあちゃんと孫のやりとりの事です。親鸞聖人も孫やおばあちゃんのように、慢の心をもってしか生きられない、命を傷つける生き方でしか生きられない、と徹底して自分自身を懺悔されています。親鸞聖人は90歳で亡くなられましたが、どれだけ深く懺悔(反省)してみても、命の光に背く生き方しかできない、慢の心を捨てられなかった、という懺悔が親鸞聖人の90年の人生の総括でした。