「弥陀の本願④―命の光に背く悪人、2」

「弥陀の本願―命の光に背く悪人、2」

 少し難しいですが、親鸞聖人の文章をそのまま引用します。

 

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし、傷(いた)むべし、と。

 

前号でも少し触れましたが、親鸞聖人はご自身について、愚禿と名告って罪悪深重の凡夫と振り返られています。

「私は凡夫だから…」とか、「私はどーせ凡夫だから」という言葉を聞きますが、親鸞聖人は「恥ずべし、傷むべし」と、傷みであると、悪人や凡夫ということは傷みを伴う自覚であると教えて下さっています。傷み無しで「私は凡夫である」と言ったところで、それはただの言い訳です。傷みの無い、また、悲しみの無い凡夫は、本当は自分の事を凡夫だと思っていないわけです。どうでしょうか。

前号から繰り返しになりますが、なぜ、親鸞は自身を「凡夫」、「罪悪深重」と、言っているのかというと、生の事実である弥陀の本願に背いているからです。第4号から何度も繰り返しになりますが、弥陀の本願力は「命そのものの光」の事です。多くのお内仏の脇掛けに「帰命尽十方無碍光如来」というお軸が掛かっていると思いますが、十方に尽きることない、また、何にも妨げられる事の無い光の命を生きているということです。ですから、命そのものが、実は、何も妨げられることの無い光を放っているわけです。しかし、自分が自分でその光を妨げる。自分が自分の命のじゃまをする。だから、悪人であると聖人は教えてくださっています。

どのように「光の命」をさえぎるかというと、命に価値をつけることで光をさえぎるわけです。

前号で「慢」という言葉で確認しましたが、自分の命を軽んじたり、また、自分の命を過大に誇る事によって、人の命を傷つける、具体的には第五号に私自身の問題として書きましたが、幼く亡くなった妹をかわいそうと思ったことは、長生きすることを命の価値の評価基準にしていたわけです。そして早く亡くなった妹に、生まれてきた意味があったのかと思い、命の光を見ようとしなかったのです。

小説家の高史明さんの一人息子の方が中学生の時に自殺をして亡くなられました。高さんはその息子さんに中学校入学の時に「今日から君は中学生だ。これからは自分の事は自分で責任を取るようにしなさい。他人に迷惑をかけないようにすること。他人に迷惑をかけず、自分のことを自分で責任を取るならば、お父さんはこれから一切君に干渉しない。」こういう言葉を入学祝の言葉として贈ったそうです。

しかし、高さんは、その言葉を深く、深く、後悔されたそうです。自分で自分の責任をとることはとても大切であり、義務に近いことだけれども、自分の子供は、人に迷惑をかけまいと、人に心を開こうとしなかったのではないか、と語られています。

人に迷惑をかけないことが、目標から、命の評価基準にすりかわっていったわけです。

他にどのように、命を評価するでしょうか。

学力であったり、性格(人間性)であったり、仕事の能力であったり、その事を高める事は大切なことですが、それが生きることの意味、命の価値としてすりかわる時、私は悪人になります。