弥陀の本願⑤悪人正機の教え‐証大涅槃‐

弥陀の本願⑤悪人正機の教え‐証大涅槃‐

(第五号と重ねてお読みください)

私たちは何に命の価値を見出しているでしょうか。

牛の歩みを書き始める事にはきっかけがありました。「若い人に迷惑をかけることしかできんから、生きているのが嫌だ、早く死んだ家族のところに行きたい」という言葉を何度も聞きました。安い気休めはなおさら傷つけると思ったので、返事はしませんでした。そのことがきっかけでした。たくさんの悲しい課題を頂きました。

冒頭の問いですが、例えば、人間性(性格)であったり、自分の稼ぎ、仕事の能力、家事の能力、地位、名誉、自分を慕う人の数、友達の数、自立性など、そういうもので自分の命の価値を見出そうとしています。命の価値は、生きることの根拠でもあり、生きる事の意味であり、生きがいのことです。繰り返しになりますが、自分の命の価値を量ることを自力と言います。自分の力でご飯を食べる、仕事をする、こんなことは自力ではありません。

自力とは命を傷つけるから問題であることを第6号で確認しました。もう一つ問題があります。自力は絶望に至るということです。

南無阿弥陀仏は本願召喚の勅命(命令)です。それは「南無阿弥陀仏はいのちの願いを聞くこと、南無阿弥陀仏はいのちの願いに生きること」です。さらに言葉をかえると「私たちが人生に何を期待できるのかが問題でなく、人生が私たちに何を期待しているかが問題である」こういうふうに言えると思います。この言葉はナチスのアウシュビッツに監禁された絶望の体験談を精神科医のフランクルは「夜と霧」という著作で、アウシュビッツの中で、死を待つだけの監禁状態での気付きとして語っています。

私の欲求が実現可能かということを私の生きることの意味としていては、必ず絶望が待ち受けている。まずそのことをフランクルは明らかにしています。どうでしょうか。

自力を根拠とした生き方では、必ず生老病死の壁にぶつかります。ぶつかった時には自分の命の価値を見出せなくなり、絶望が必ず待っている。生きがいを奪われると絶望します、生老病死は生きがいを奪います。

だから厳粛なる生死の事実の前では、自力は打ち砕かれてしまう、自力は無効であると親鸞聖人は言っているわけです。

自力無効とは命の価値を自分で見出すと絶望にいきつくということです。どうでしょうか。こういうことが自力の二つ目の問題です。

以前、よく、いろんな人に「仏教とは一言で言うと、どういうことか」と聞かれました。そのころは一言では難しいと答えていました。最近ほとんど聞かれることはありませんが、今は「意欲と勇気を賜ること」と答えます。それは浄土真宗の伝統的な言葉で言うと完全なる独立です。浄土真宗は完全なる独立の教えです。完全なる独立とは、自力からの解放、自力との決別のことです。

命を傷つけ、絶望に至る自力との決別を阿弥陀如来は願っています。それが弥陀の本願です。

阿弥陀仏は「あなたは、光の命を生きる者である」と確認させた上で、「だから自力は必要ないだろう」と呼びかけ、自力と決別させよう、自力から解放させようと願い、お内仏(仏壇)と成り、また、お経と成り、言葉と成り、私の前に阿弥陀仏は現前(げんぜん)されています。

浄土真宗は「自力無効を明らかにし、命の願いを聞き、命の欲求を聞き、光の命に導かれ、生きることの意欲と勇気を賜る」教えです。またそのことが称名(しょうみょう)念仏ということです。