2005年6月29日 白骨の御文

2005年6月29日 白骨の御文

父が交通事故で亡くなり三ヶ月半が過ぎました。このタイミングでこういう場を頂き、一度総括を求められているのかと感じますが、こういう表現をとってしまう事に、私に根深い運命論的な体質があるのではないかと思います。

お葬式が終わり、四十九日まで、というより今日まで、非常に情けない事に、生活の変化についていけず、ストレスや愚痴に振り回され、その日その日をやり過ごす事に精一杯で、事故の日の出来事や悲しみ、というよりも父自身と、また自分自身と、向き合うということが出来なかったのですが、父また祖母の七日七日のお参りで白骨の御文を拝読していると、その間、わずかな時間ですが、自然と事故の日の情景が思い浮かび、そして向き合う時間を与えられました。やはりそれは僅かな時間でしかありませんでした。白骨の御文は無常や生者必滅を教える御文と思っていたのですが、その死を通して、亡くなった人自身と、また自分自身と向き合わせてくれる御文でした。

また、今改めてその白骨の御文を読むと、「たれの人も後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏申すべきものなり」と結ばれています。今は、その結びの部分が、父、またはその仏弟子としての死から何を問われ何を教えられたのかという問いかけの言葉として聞こえてきます。しかし私は今、具体的に何を教えられたのかと自分に問うと正直に言いますと、具体的に答えられません。だからこそ、この御文は私のために益々そう願っているのではないかと思います。

2005年6月29日