牛のあゆみ1「出会い―自分と出会う―」

「出会い―自分と出会う―」

好きな言葉は「一期一会」と答える方が多いように、人生で出会いが大切であるということをよく聞きます。その出会いということに、1新しい人との出会い、2よく知った人の新しい一面との出会い、3自分自身との出会い、こういう三つの出会いがあるのではないでしょうか。

特に、2と3が仏教が常に中心に置いてきた問題です。

2のよく知った人の新しい一面との出会いというのは、意外と優しい一面があったとか、反対にあんなに優しそうな人が非常にいいかげんな人だったとかということがあります、その言葉の後には裏切られたという言葉がよく続きます。「意外と...」とか「裏切られた」という言葉は、思い込みや、決め付けを中心とて、偏見を生み出していきます。松任の故暁烏敏先生が「一人一人を一つ一つの型にはめることは人間に対する冒涜である」と厳しい言葉で言われていることがとても印象的です。一人の人と出会う、出会いきるということは一生を費やすことのようです。また、縁ある人と一生をかけて付き合っていくという覚悟もいるようです。

一生をかけて出会うということは3の自分自身との出会いについてもそうです。一番近いようで一番遠い存在が自分自身であるとよく聞きます、例えば、如来(仏)に護られた自分と出会う、それは誤解を生むかもしれませんが簡単にいうと人と人のつながりの中を生きているということです。

またこんなに悲しみたくないのに、その悲しい気持ちを消せないことに無力さを感じ、思いもしない無力な自分と出会うということもあります。

仏教の言葉で蛇蝎(じゃかつ)(へび、さそり)の心とありますが、優しさの裏には、必ず、下心がある。下心というのは大なり小なりの見返りを求める心です。ありがとうという言葉を期待する心です。車で進路を譲った時にありがとうという合図が大半は返ってきますが、帰ってこない時は少し腹が立ちます。そういう心が、確実に私たちにあると教えてくださっています。自分がありがとうと言う事は当たり前ですが、ありがとうを人に求める心も当たり前にしてしまい、罪を罪と知らずに生きています、罪を知らずに罪の中を生きる者であると教えてくださっています。そういうことも③の自分と出会っていくということです。

10月8日に私がお世話になった、京都の大谷専修学院の竹中智秀院長が亡くなりました、その先生の講義は「あなたは誰ですか」という言葉から始まりました、それが浄土真宗と私との最初の出会いでした。その言葉は自分がどういう人間なのかしっかり見据え、その時その時、一瞬一瞬見せる自分自身から目を背けずにしっかりと出会う。そうでなければ誰が生まれ、生きて死ぬのかがはっきりしない、また闇の中で生まれ闇の中に死んでいくことになり、自分が生きたことが生きたことにならないと厳しく教えてくださいました。「自分と出会う」ということを中心に祖父の著書「牛のあゆみ」のタイトルを頂いて、タイトルの通りゆっくりと見つめていきたいと思います。

 

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