「大乗の至極-浄土真宗2 小乗と大乗」
釈尊はいつ仏に成られた(成道)でしょうか。
① お生れになられた時。
② 正覚(悟り)に到達された時。
③ 初転法輪(初の法話)の時。
④ 入涅槃(臨終)の時。
どうでしょうか。
答えは②と③です。
しかし、②なのか、③なのか、というところで仏教は二つに分かれます。
②の時を成道とする立場を小乗仏教、③の時を成道とする立場を大乗仏教と言います。
②については前号で自利の人という言葉を考えましたが、そこが問題になります。
釈尊の死後、仏教教団は学問・研究教団となり、外へ関心を持たず、自分への関心にのみ傾倒していきました。自利の心です。とても閉鎖的な集団になっていきました。山ごもり的修行、山ごもり的学問です。また、近年原始仏教といいますが、原始仏教とは、この釈尊以降の教団の事を指すようです。これを小乗仏教と言います。また南伝仏教と言い、タイやチベット等、日本よりも南の地域へ広まっていきました。
釈尊入滅300年後位に、閉鎖的では困る、「自分も仏道を聞きたい」という大衆の思いから湧き起こってきたのが「大乗仏教運動」です。それが③の時を成道の時とする立場の人たちです。
釈尊は覚(さと)りを得たあと、実は悩まれました。このことを人に話しても誰も理解してくれないのではないかと。だから、自分の胸の中にしまっておきたいと何日も悩まれたのです。覚りを得ても自分さえよければいいという心あったのです。そんなところへ梵天(娑婆世界の王、人類の代表)が現れ、その正覚の内容を知りたいと人類が望んでいる。だから説いて欲しいと頼みました。このことを「梵天勧請」と言います。そして釈尊は「共に救われるために苦労する」と決意され、初めて法話をされました。このことを「初転法輪」と言います。
「梵天勧請」は、本当に梵天という人が釈尊の目の前にあらわれたのでなく、釈尊の悩みの深さと、また、決断の大きさを表すため、また、釈尊の正覚の内容こそ人類が本能的に、潜在的に願っていることであるという比喩です。そして、初めて法話し、それに聴衆がうなずき、聴衆は仏弟子と成り、仏道を歩もうとする仏弟子が誕生しました。それは、釈尊の、正覚が真実であることの証明です。一人でこれが真実だと言ってもただの思い込みにすぎません。
釈尊が初転法輪されたという事は、「全人類と、共に救われていきたい」という心の事です。前号で書きました、自利利他円満の心です。
大乗仏教は、「共に救われたい」という釈尊の心、その一点に仏道の命を見出し、釈尊の成仏の時を見定め、仏教とは共に救われていく自利利他円満の教えであるという視点を中心におきながら、小乗仏教と全く違う新しい理解を深め、仏教は猛スピードで発展していきました。
まとめると、大乗仏教は民衆から湧き起こった、人間の苦悩から湧き起こってきた教えです。まず、②正覚到達が仏なのか、③初転法輪が仏なのかここに大きな仏道の変わり目があります。
親鸞聖人も、そこにこだわられました。そして、仏教とは、宗教とは、大乗の至極でなければならないと見定められていきました。
宗教とは、自分一人が救われていくのでなく、全ての者が、「共に、同時に、同じ様に」救われるものでなければならないと思います。