「花咲く生-弥陀の本願-」
毎月の月参りの最後に「全ての人の救われる法において、自身は救われ、自身の救われる法を身証して、全ての人の救われる道は見開かれるのである。」という文章を読んでいますが、そのことを中心に書きたいと思います。
浄土真宗では、三つの経典(きょうてん)を
1、『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』、(大経(だいきょう))
2、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』(」)(観(かん)経(ぎょう))(」)
3、『阿弥陀(あみだ)経』」)
を「浄土三部経」として特に大切にしています(できれば覚えておいて下さい)。
経典というのは、釈尊(釈迦)の弟子が編集した釈尊の語録です。キリスト教の聖書も弟子が記録したキリストの語録です。経典の場合は、直接釈尊が書かれたのでなく、弟子が編集した語録であるというところに大きな意味がありますが、なぜなのかということは今回省きます。
特に大経を真実教と言いますが、それは、親鸞聖人が著書『教行信証』でその理由を明らかにされています。その理由とは阿弥陀の本願が書かれているからです。
聖人の造られた和讃(七五調の和歌)に「摂取(せっしゅ)して捨てざれば、阿弥陀と名づけたてまつる」とあります。摂取して捨てない、摂取不捨の心が阿弥陀の本願であり、それが、阿弥陀如来の命であるということです。摂取不捨の心がなければ、阿弥陀如来ではないということです。非常に明快です。
摂取不捨とは、「選ばず、嫌わず、見捨てず」の心であると恩師竹中先生に、しつこいほどに教えていただきました。言葉を換えると「全ての人を救う」ということです。また、伝統的に「命みな生きらるべし」という言葉で教えられています。
「命みな生きらるべし」ということが書かれているから、大無量寿経を真実教であると親鸞聖人は言われたわけです。真実とは「いつでも、どこでも、誰でもが、うなずく」ということであると教えていただきました。
「命みな生きらるべし」というのは、死なないとか、長生きする、みんな平均寿命まで生きられるということではないですね。
どんな命も光に満ちた命であるということです。
どのような命も尊いということです。生まれて、生きて、死ぬということがそのまま尊いということです。
命が尊いということに理由や、価値基準や評価なんて必要ないということです。
前回、「泣きなさい、笑いなさい、いついつまでもいついつまでも花を咲かそうよ」という歌を紹介しましたが、そういうことです。笑顔だけが光ではなく、涙も光であると、私の一番奥からいのちは光を放っているということ、それが阿弥陀の本願力(ほんがんりき)ということです。
阿弥陀はインドの言葉ですが、翻訳すると、無量(むりょう)寿(じゅ)、無碍光(むげこう)と、なります。寿は命です。だから阿弥陀如来というのは、私の一番奥のいのちであり、光のことです。この場合のいのちとは勿論心臓ではありません。阿弥陀如来は私の外に在り、同時に中にも在るわけです。
大経に仏の様相を「光(こう)顔(げん)巍巍(ぎぎ)」と表されています。光の顔と書きますが、笑顔のことでなく、その命の一番根底から光輝いているということです。
「光の人生」「光のいのち」を生きている。それが全ての人を救うという阿弥陀の救いの中身です。