6,往生浄土 —③仏の心、大悲無倦常照我」

 

 

「往生浄土 —3,仏の心、大悲無倦常照我」

 皆さん、成仏という言葉を聞かれたことがあると思います。成仏ということは私を「いつでも、どこでも、どんな時でも」心配して下さる方に成るということです。

 亡くなられた方は仏に成られるわけですが、仮にそれが兄妹であるなら、「妹と私」という関係と同時に「仏と私」という関係ができるわけです。「妹と私、仏と私」という関係の中で生活していかなければならないということです。成仏して終わり、成仏して縁切りでなく、そこから新しい関係を結んでいかなければなりません。「私を心配して下さる仏」と「心配される私」という関係の中で生活していく必要があります。

 亡くなった方が「私を心配して下さる仏」に成られたということは、祟りやばち・・を与えるということは絶対にしないということです。仏のお心として、正信偈に「大悲無倦常照我だいひむけんじょうしょうが」とあります。「大悲ものうきこと無くて、常に我が身を照らすなり」と親鸞聖人は示されています。「いつでも、どこでも、どんな時でも」無条件に大悲の心で私を照らすということです。また如来の大悲とは無蓋の大悲であると言われています。蓋の無い心ということですが、蓋だけでなく底もないわけです。天井もなく、底も無い、無限大の心、だから「〈大〉悲」なんですね。

 それは昔からよく親の心に譬たとえらています。親の心は無条件の愛と言われています。親は叱ることはあっても、子供を無意味に傷つけないし、子の不幸を願わない、そして、いつまでも、どこまでも子を心配する心です(実際そうでないこともあるようですが)。仏の慈悲心とはそれ以上の心です。親が子を傷つけないように、絶対に仏も祟りとかばち・・を私に与えることはありません。

 ですから親鸞聖人は「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。」と語られています。

 よく、「墓にヒビが入っていた、親が、何か知らせているのだろうか」「遺影が傾いた、何か知らせたいのだろうか」と聞きますが、それと仏の心は全く関係の無いことです。必ず仏は仏自身の心を念仏を通して知らせてくれます。念仏はそのためにこそあります。今まで書いてきた通り、念仏とお経とお内仏とそのお飾り(荘厳)を通して私に仏が仏自身のお心を伝えて下さります。

 ですので、お参りするとか念仏するということは、そういう仏と成られた先祖の心を頂く、それに尽きる訳です。

 心配して下さる心を「仏の本願、如来の本願」と言います。その中身はくだけた言い方をすると「しっかり生きているか、仲良くしているか」と心配されています。少し難しく言うと「自己を尊重し、他者を尊重しているか(第9号)」と心配して下さっています。

 「自己を尊重し、他者を尊重しているか(第9号)」と心配する大悲の心によって、私を照らして下さっています。そうすると私はまさに心配されるべき生活を送っていることが明らかになります。照らし出される私の生活とは貪欲(不満)・瞋恚(いらだち)・愚痴(グチ)の生活であったと親鸞聖人は告白されています。きっと妹や我が子に心配されたくないと思う方もおられると思います。しかし、本当に心配される必要のない生活でしょうか。私の生活とは貪欲・瞋恚・愚痴の生活ではないでしょうか。

 そしてそういう自分の姿を知った時に必ず目の前に新しい世界が開かれてきます。その新しい世界こそ現生としての浄土です。ですので、お参りや聞法をして仏の心を頂き、自分の生活の姿を見つめ、考える時、必ず浄土に往生します。

 

 

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