浄土を願うものは、すでに自他の業縁を悲しむ心があるのである

 

 

 「慈悲は人間の理想である。さればそれを現実にするこそ聖なる道であろう。」

これは金子大栄先生のお言葉です。慈悲とは細かく考えると語弊はありますが、大雑把にいうと、優しさということです。人に優しく接する、ということはお互いに生きる勇気と元気と喜びを分かちあうことです。それこそ人間の持つべき理想や願いではないかと思います。でも果たしてその事はまっとうできるでしょうか。

 金子先生は「しかしそれは容易に行われない」と続けていらっしゃいます。本当に私の姿を厳しく見つめるならば、優しさをまっとうできているとは言えないのではないかとおっしゃられています。

 それどころか、私は知らず知らずのうちにグチを言ったり、身勝手な行動をしたり、人を不快にさせ、傷つけています。それが私の正直な姿ではないでしょうか。

 願いをまっとうすることが出来ないのならば、しなくていいのか、諦めてしまえばいいのか、というと違うわけです。それは開き直りにすぎません。

 出来る事だからやる、出来ない事だからやめる、もしくは出来ないという事実から目を背けて出来ているつもりになる。私の生活はしばしばそうなっているのではないでしょうか。

 

金子先生はまっとう出来ないという事実に立つことについて

「それは慈悲の心を捨てるものではない。浄土を願うものは、すでに自他の業縁を悲しむ心があるのである」

 まず、私の生活を厳しく、厳密に見つめる、そしてその見えて来た、出来ないという悲しみに向き合う。そのことが大切ではないでしょうか。

 

 できるとおっしゃられる方もいらっしゃると思います。できないとおっしゃられる方もいらっしゃると思います。

 しかしそれは容易におこなわれない。それは慈悲の心を捨てるものではない。浄土を願うものは、すでに自他の業縁を悲しむ心があるのである

 

 

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