往生浄土6—仏教とは自己を知ること

「往生浄土6—仏教とは自己を知ること」

 

 「慈悲は人間の理想である。さればそれを現実にするこそ聖なる道であろう。しかしそれは容易におこなわれない。」

これは毎月の月忌参りの際に拝読文として読んでいる文章の一部です。慈悲とは細かく考えると語弊はありますが、大雑把にいうと、優しさということです。その優しさには三つあると言われています。「一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。」大悲、つまり一番大きな優しさとは無縁である。どういうことかと言うと、理由もなく見ず知らずの人に優しくすることです。

宮城顗先生はポータブルテリトリーということをよくお話しされていました。「電車の中で若い女の人が化粧をしている。化粧は人前では普通しない。電車の中で化粧をすることは、周りに人がいるのに人がいないことにして、人がその人の中で風景化している、モノ化している」と、よくお話してくださいました。私は人に優しくするどころか人を風景化してしまっているわけです。

自分の体験としてよくあることが、車に乗っていたり、コンビニで並んでいると急いでいるからと割り込みをされると自分も急いでいるのにと腹が立ちます、はいどーぞという訳にはなかなか行きません。大悲ということはそういうことなんですね。自分の思いを優先させず、見ず知らずの人のわがままな思いも受け入れる心です。

勿論、見返りも求めません。でも、私が何か良いことをするときはついつい見返りを求めてしまいます。お礼をくれるはずだと、お礼を言ってもらえるはずだと。大悲というのは良いことをすればどこかから良いことが返ってくる、そういう見返りも求めない心です。無縁の慈悲とは無償の優しさの事です。

中悲は省略して、小悲ですが、これはいわゆる当たり前の優しさのことです。でもその当たり前の優しさすらも徹底することは難しいです。親鸞聖人はご自身の身を「小慈小悲も無き身」と見つめられています。これは開き直りの心ではありません。自身の姿を悲しむ心です。

「小慈小悲も無き身」というのは親鸞聖人だけの問題でしょうか?私は、厳しく突き詰めて自分の身を見つめようとしません。優しさは自分にある、努めれば優しくできるはずだろうと思い込んでいます。こういうことを廃悪修善といいます。自分の悪いところを廃し、善を修める。これは自分への思い上がりなんですね。小慈小悲は今の自分にはないが、努力すればどうにかなると、そういう心を思い上がりの傲慢な心として親鸞聖人は見つめられています。そういう心を親鸞聖人は「自力執心の心」と呼ぶのです。

本当にしっかりと自分を見つめる時、廃悪修善なんてこと言えるでしょうか?

親鸞聖人は廃悪修善できない身であるとして、煩悩成就の凡夫と自身を見つめられています。煩悩は取り除こうとしても取り除けない、それどころか私の身に煩悩は成就していると見つめられているのです。

 私はどうでしょうか?煩悩成就の凡夫と思っているでしょうか?私は「小慈小悲も無き身」ではないのでしょうか?

明治の仏教者・清沢満之は

「自己とは何ぞや、これ人生の根本課題なり。」

とおっしゃられています。自己を知ることに尽きるということですね。

 曹洞宗の開祖道元禅師も

「仏道を習うとは自己を習うなり」

とおっしゃられています。さまざまな宗派がありますが仏教とは自己を問い、自己を明らかにし、自己を知る事でなければならないということですね。反対に自己とは何かということを習う事がなければ、仏教を習ったつもりでも、それは仏教を習ったことにならないということです。楽しい法話を聞いても。立派な法話を聞いても、自己を知る事がなければ、それは聞いたことにならないということです。

 仏教とは私を知ることだけです。しかし、私はそれでは満足できない。それでは前に進んだ気にならない。ここに大きな問題があるのではないでしょうか。