往生浄土—4,仏の呼びかけと私の生活
私は①貪欲とんよく②瞋恚しんに③愚痴ぐちの心で生活をしています。この三つは三毒と言われています。自分自身の生きる力を奪い、また周囲の人の生きる力をも奪う毒なのです。
- ①貪欲とは欲求のことです。特にお金に関わる問題です。求めて得る事が出来ても一時しか満足できず、さらに求め続ける心です。シュマッハという方は「止まれ、もう十分だ」ということを言える事が豊かということであると言われています。私の心と真逆ですね。私の心は「もっともっと」です。長生きしたい、欲求はそれにとどまらず、死ぬまで元気でいたい、そしてコロッと死にたいと、死に方にまで欲求をぶつけるのが私です。欲求は無限に広がります。その欲求を手に入れるためには時には人を蹴落とし、人を傷つけます。手に入らなければ大きな絶望感とストレスを抱えることになります。
つぎに②瞋恚とは、そねみ、怒り、イラダチです。これは言わずもがなですね。怒りは正に自他共に生きる力を奪います。怒る事と叱ることは違いますが、私達は往々にして、怒りながら叱ります。顔を真っ赤にしてこれは怒っているのではなく叱っているのだ、怒りたくて怒っているのではない相手のために怒っているのだと言っても説得力はありません。そんな時は怒り95%叱る5%というところでしょうか。正確に自身を見つめる必要があります。
怒りは報復行為へもつながります。「目には目を」という事は正しいことでしょうか。実際問題、現代私達は相手に非がある場合は自分の怒りを正当化しますが正しいことでしょうか。
さらにそういう正当化できる怒りばかりでなく、八つ当たりもします。仕事のイラダチを家族に八つ当たりする事もあります、反対に家族間のストレスを職場で八つ当たりすることもあるかもしれません。怒りによって人を傷つけます。そうすると今度は自分が周囲の人から距離を置かれ相手にされなくなり、自分の居場所を失っていきます。
③の愚痴ですが、私の生活にはグチとして現れます。口を開くと、「今日は暑くてよわりますね」とさっそく不平不満が出てきます。
とある学校の先生が授業中、卒業後の社会生活への参考として色々な話をよくしていたそうです、しかし、それは実はグチに終始していただけだったと気づいたそうです。そして、それではいけないとグチを一週間我慢してみると、みるみる具合が悪くなっていったそうです。グチは溜めると自分の体調を崩す、こんなに身体に悪いものを自分は授業中生徒達にまき散らしていたのか、そりゃ生徒の気力も無くなってしまうと、とても反省したそうです。
このように①貪欲②瞋恚③愚痴の心とは私が持つ毒として、自分自身の生きる力を蝕み、また、他者を傷つけ、他者の生きる力をも奪います。
だから、亡くなった人は仏となり私を心配せざるをえないのです。だから「そのことに気付け」と南無阿弥陀仏を通して私に呼びかけて下さっているのです。そして、たしかに貪欲・瞋恚・愚痴の心で自他の生きる力を失わせる生活をしている。「私の生活はたしかにそうである」と応えていく言葉が南無阿弥陀仏なのです。私に呼びかける南無阿弥陀仏と、それに応える南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏には呼応という意味があります。
そして、仏と私が呼応する時、新しい世界が私の目の前に開かれます。