牛のあゆみ2悲哀を大事にする

「心は自分のものなのか」

前号で悲しみを消せないという無力な自分と出会うということを書きました。

それは自分の心は、実は、自分ではなかなかどうしようも出来ないということです。蓮如上人の御文に「それ八万の法蔵を知るというとも」とあるように、諸行無常とか生者必滅という真理があって、その真理をどれだけ分かったと言ったところで、大切な人が亡くなれば、平常心でいるということは難しいことです。

確実に人は必ず死ななければいけません。また、いつ死ぬことになるか分かりません。それが人間の道理として教えられています。反対に、命の約束に従えずに、それに悩む心も人間の道理です。

その悩みは、

1、亡くなってほしくなかった、

2、亡くなった人はどうなったのか、

3、生きている間にもっといろんなことをしてあげたかった、

4、なぜ自分を残して亡くなってしまったのか、

5、最近変なことが起こるのは、先祖をしっかり供養してないからだろうか…

など、そういう悲しみを備えた悩みが多いようです。私がこの1、2年見る夢は、父親が実は生きていて、もう葬式をしてしまったから、外には出れんよという会話をしている夢です。夢と深層心理の関係というような問題は私は分かりませんが、やはり心のどこかに亡くなってほしくなかったという思いを今も持っているのだろうと思います。

お葬式の後、七日参りといって、初七日まで毎日、その後四十九日まで七日ごとに、そして、毎月の命日の日にお参りをします。そのお参りをさせていただくと、明らかに時間が経つほどに、悲しみの風化ということもあるかもしれませんが、明らかに、家族の方の表情がかわっていきます。そういうように自分の意識とは裏腹に、悲しみの気持ちをコントロール出来ている方はいません。

悲しみだけが自分でどうにかならない、というのでなく、怒りや、グチの心もそうです。また、消そうにも消せないことの反対に、悲しみたいと思ったところで悲しめませんし、怒ろうと思っても怒ることはできません。

歎異抄に親鸞聖人と弟子の唯円の会話があります。「如来の心を知れば地に踊り、天に踊るほど喜ばなければいけないが、そんな心一つも起こりません。」と。唯円が聞くと「私もそうだと」と親鸞聖人は答えられています。そういうように感謝の心を自分で起こすことも難しいのです。

それなのに心はコントロールできると思い込むのが私です。正信偈で「邪見憍慢悪衆生」とありますが、こういうことを邪見と言います。その思い込みによって、自分を縛り、自分を苦しめ、また、縁ある他者を縛り、その人を苦しめます。親鸞聖人は和讃で「造悪好むこの身」とご自身の身を悲嘆されています。好んで悪を造っている様な私であるという意味です。しかし、自分の心をコントロールする事をやめようして、やめられるでしょうか。                    

 

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