竹中先生は縁ある人の死を迎えた時に臨死体験を経験するとおっしゃっておられました。その臨死体験とは、自分がどう死んでいくのか、なぜ生まれてきたのか、死によって限定される生をどう生きるかなどの問いができることだとおっしゃっていました。
その反対に僕は先日、こういう言葉があてはまるかわかりませんが出生体験を体験しました。
6月28日に僕の妹夫婦に子供が生まれたのですが、僕にはまだ子供がいませんので、陣痛に苦しむ姿を見るのは初めてで、人が一人生まれてくるというのはこんなにパワーのいることなのかとあっけにとられていました。
祖父江文宏先生は「母親の個体としてのエネルギーと、生まれてくる子供の個体としての力を足しても足りない、出産を可能にする大きなエネルギーがはたらくとしか言いようがない。」とおっしゃっていました。
感動という言葉が軽くなってしまうようなできごとでした。
自分もこんなふうに生まれてきたのかと思うと、生まれて生きて死ぬという事は理屈でなく、ただ、その現実がそのまますばらしい、尊いという思いがこみあげてきました。
僕のアルバムに母がメッセージを残してくれていました
「最愛なる私の子供よ
ご出生おめでとう
全人から祝福されて生まれてきたのですよ
今後とも幾久しく
仲良く苦楽を共にしましょう。
母より」
僕も、今、生まれたばかりの甥っ子に同じ言葉をかけてあげたいと思っています。
こういう言葉をかけられて生まれてきたことと、かけてあげたいという思いの両方がこの身の事実なのだと気付かされました。