私たちはどのような救いを求めているのでしょうか。
数年前、ある人に、「人を傷つける教義であろうが、心の満足を得られれば、それでいいではないか」と言われました。深く考えなければいけない言葉だと思います。
金子大栄先生が残してくださった言葉に「全ての人の救われる法において自身は救われ、自身の救われる法を身証して、全ての人の救われる道は見開かれる」とあります。たとえ人を傷つけるような教えではなかろうと、自分や、周囲の限られた人しか救われないのであればそんな救いはいらないという決意として聞こえます。
宮沢賢二は「世界中の人が幸福にならないかぎり個人の幸福はない」と言っています。
そういった救いや幸福とはどういうものしょうか?それと重ねて、私の求める救いもはっきりと確認する必要があります。
さきほどの、金子先生の言葉は同時に、阿弥陀仏の心を述べています。阿弥陀仏の心は、摂取不捨の大慈悲の心です。言葉を換えると「えらばず、嫌わず、見捨てず」ということで、全ての人を救い遂げるということです。近代の言葉では「命みな生きらるべし」と教えられています。
それは、何かをすれば、いつか必ずといような、ニンジンをぶら下げる話しでなく、今、ここで、全ての人を救うという事です。今、ここで「命みな生きらるべし」と願いをかけられているわけです。長く生きなさいという意味でなく、それは光の命を生きているということです。
浄土真宗は弥陀の本願に開かれる念仏成仏の教えです。
補足