「大乗の至極—浄土真宗 4、宗教とは何か」
第9号では自分も他者も同時に救われたいという、自利利他円満の願いこそが仏教の命であるということを確認しました。
第10号では仏教には大乗仏教と小乗仏教があるということを確認しました。大乗と小乗の違いは自利利他円満の願いの有無にあります。
第11号では、念仏は誰もが救われる教えである。だから、修行の出来ない者が念仏すればいい。念仏は下等な者のための下等な教えであるという、当時の仏教の理解を法然上人は逆転の発想で捉え直し、誰もが救われる教えであるから尊い教えであると、開き示されました。さらに親鸞聖人は誰もが救われることこそ、大乗の命、仏教の命である、自利利他円満の教えである、だから、本願の教えこそが大乗の至極であるとたからかに宣言されたということを確認してきました。
自分も他者も、「共に、同時に、おなじように」救われる、それが大切ではないでしょうか。
自分にとってはそのことが一番重要なことでした。
浄土真宗では、よく「念仏唱えよ」と言います。正しくは「称えよ」です。唱えるという言葉は、口で言うです。称えるはそれとは全く意味が違います。
私の祖母は、6年程寝たきりで、口も利けない状態でした。たまになんか言っても、「アー」か「ウー」しか言えない状態でした。ナムアミダブツとは言えません。念仏唱えられないわけです。
信心と信仰心は全く意味の違う言葉ですが、よく混同されています。私自身も混同していました。「念仏唱えよ」と同じく、「信心が大切である」と浄土真宗ではよく言います。それを信仰心と勘違いすると大変なことになります。私の妹は小学校の1年生でなくなりました。小学校の1年生に信仰心なんてあるでしょうか。普通は1時間のお経を黙って座って聞くなんてできません。信仰心はないわけです。
念仏称えるを、唱えると勘違いし、信心を信仰心だと私は勘違いしていました。だから、私は浄土真宗は全く役に立たないものである。なんて差別的な宗教なんだ、と、中学生、高校生の頃思っていました。念仏や信仰出来る人のためだけにある教えなら、自分には必要ないと。
普通、宗教の救いには条件があります。こういう修行をしなければいけないとか、腹を立てない、グチを言わないとか、ボランティアしなさい、何人入信させなさいとか、いくら払ってこれを買いなさいとか、10万円寄付すればいいとか、そうすれば救われますよ、と、このように条件があります。
前述の、念仏や信仰心も私は条件として受け取っていました。
繰り返しになりますが阿弥陀仏は全ての人を救うという願いの仏です。「摂取して捨てざれば阿弥陀と名づけたてまつる」摂め取って捨てない、これが阿弥陀如来の阿弥陀如来たる所以であるということです。
念仏唱えれば救われるのでなく、信仰心があれば救われるのでもなく、全ての人を救うです。正確には「どのような者も捨てない」。全ての者を、「共に、同時に、同じ様に」捨てずに救う。それが浄土真宗です。その救い方は「命みな生きらるべし」「光の命を生きる」ということの他にありません。
今回のテーマ「大乗の至極—浄土真宗」、これは、お参りの時に、「お釈迦さんまでさかのぼれば仏教はみんないっしょだろ」とよく言われ、そうじゃなくて、どのようにお釈迦さんまでさかのぼるのか。どのような救いを求めてお釈迦さんと向き合うのか、お経を読むのか。病気が治って欲しいという思いでお経を聞くのか、お金がもうかればいいと思って、お経を読むのか。それが仏教の変わり目です。
親鸞聖人は比叡山を捨てて、「選ばず、嫌わず、見捨てず」の本願を選びました。それは自分も他者も「共に、同時に、同じように」救われる道こそ自分の願いだったからです。