5,往生浄土—⑥私は浄土に往生します

 

 

「往生浄土—5、私は浄土に往生します」

浄土は二重の構造になっています。①みなさんご存じの通り亡くなった人は浄土に往生します。それと同時に②「今」私も浄土に往生するということが成り立ちます。亡くなって浄土ということは前回の成仏の問題です。亡くなって往生し、私の事を心配して下さる仏に成って下さっている。それ①です。②について今回考えたいと思います。

 親鸞聖人は「浄土真宗」という言葉で明らかにして下さっています。「①浄土宗」ではないのだ「②浄土真宗」なのだと言われています。宗は宗派の宗という意味ですが、厳密には「〜を中心とする」という意味が宗の字の意味です。

 ですので「①浄土宗」は「浄土を中心として生活する」ということになります。浄土を中心とするということは私は浄土に往生できるのかを心配する生活の事です。それは浄土を目標、終着点、ゴールにする生活です。

 「②浄土真宗」には真という字がありますね。「真とは真実功徳」という意味なので、「②浄土真宗」とは「浄土の真実功徳を中心として生活する」という意味になります。「浄土の真実功徳を今頂いて生活するのである」と親鸞聖人はおっしゃられています。それは浄土の真実功徳を出発地点にする生活です。浄土に対する一番の誤解は浄土をゴールにしてしまうことです。浄土はゴールでなく出発点です。そういうことを親鸞聖人は明らかにしてくださったのです。

 浄土をゴールにするのが「①浄土宗」、浄土を出発地点にするのが「②浄土真宗」です。

 浄土の真実功徳を頂くとは阿弥陀如来の声を頂くことです。その声とは「私はあなたを③照らし、そして④護る、」と言う声です。

 何を「③照らす」かというと私の願いです。釈尊はお生まれになられてすぐ七歩歩いて「天上天下唯我独尊」とおっしゃられという伝説があります。そんなバカな話しあるかと思っていましたが、あるのです。生まれてすぐ、必ず「オギャー」っと泣きます。この「オギャー」なんですね。「天上天下唯我独尊」とういうのは私は偉いという意味ではないですね。「私は生きたい」そういう叫びです。その叫びはそれだけにとどまらずに発展し、「私は生きたい。ということはあの人も生きたいんだ。」という気付きを生みます。それは「自己を尊重し、他社を尊重したい」ということです。第九号にも書いた通りそれが人間の本能であり、願いです。自己を尊重し他者を尊重したいということは生きる意欲と勇気と力をお互いに分かち合い、励まし合いたいということです。

 何を「④護る」かというと、願いをまっとうしようという生活です。阿弥陀如来に照らされ「生きる意欲と勇気と力をお互いに分かち合い、励まし合いたい」という願いを回復すると、前回確認したとおり、貪欲・瞋恚・愚痴の生活をし、自己と他者の生きる力を奪っていることが浮き彫りになります。そうすると、なんてひどい人生を歩んでいるのだと自分の人生に落胆したくなります、そこを阿弥陀如来は護るのです。落胆させないのです。何度も願いに立ち返らせまっとうするように護ります。「焦らず、比べず、あきらめず」に願いをまっとうしないさいと私を護るのです。

 「あなたを照らし、そして護る」という声が南無阿弥陀仏として、私達に与えられた浄土の真実功徳です。竹中智秀先生は「心に浄土を持つ生活」ということをおっしゃられました。それは「あなたを照らし護る」という如来の声を聞き、願いに帰り、願いをまっとうしようとする生活です。それが浄土に往生するということです。

 ですので、浄土はゴールではないのです。浄土は出発地点なのです。浄土から出発して、願いに生きる。その願いに生きる姿が浄土に往生する姿であると親鸞聖人は見定められ、浄土真宗という名に託されたのです。

 私はもう死んでいますか?確かに私はいつ死ぬか分かりません、しかし、今私は生きています。まだ死んでいないのです。だから私は今浄土に往生します。

 

 

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