マウント・承認欲求・SNS 三つの髻(おやまごぼう2020年3月号寄稿)

誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。(聖典二五一頁)

 

 特に「愛欲・名利」という言葉に注目したいたのですが、愛欲・名利の原典は口伝鈔の法然上人と聖光房のやりとり(聖典六六一頁)にあるのではないかと思います。

 聖光房が三年の修学を終え郷里に戻ろうとしていました。

 師法然聖人は「残念な事だ、髻(もとどり・マゲ)を剃らずに帰るのか」とおっしゃられました。

 聖光房は「私は出家得度して、何年も経ちます、なぜそのように言われるのかわかりません。」と。

 法然上人は「髻には勝他・名聞・利養の三つの髻がある。この三つの髻を剃り捨てずは法師と言いがたし」と語られました。

 親鸞聖人はそのやりとりを横で聞いていて、それを聖光房個人の問題とせず、自分の課題とし、一生課題にし続け、一生問い続けたのが、前記の愛欲・名利という言葉ではないかと思います。愛欲・名利とは勝他・名聞・利養の三つの髻と言い換えれるのではないかと思います。愛欲とは性欲や肉欲ではなく、自己執着心と捉えるべきではないかと思います。

 近年は「論破」や「マウントを取る」という言葉が流行しました。論破やマウントは勝他に通じる言葉だと思いますが。論破やマウントという言葉によって、私も私の中に論破したい心や、マウントをとりたい心があると気付かされ、勝他の髻は剃り捨てたつもりでもいつのまにかまたはえてくるのだなと再確認させられました。

 社会はなかなか裸で生きていくのは難しく、どうしても三つの髻を飾り立てないと生きていけないという面もあると思います。

 しかし社会のせいだけでなく、本能として私は三つの髻を飾り立てたいのです。

 そのために、自分を誇り、「私はこれだけ知っていると」仏法すらも自分の手柄にし、人を見下し、人を傷つけます。

 自分を誇れるうちはいいですが、調子を崩し、自分の力が衰えていくと、自分を誇れず、誇る力の反動で、徹底して自己を蔑んでいきます。

 

以上

 

追記(背景)

自分の周りに「有名になりたい」という欲求をストレートに言うや行動や態度に大きく出ている人も増えた気がしていました。

それは誰でも世界に向けて気軽に発信できるようになったSNSの弊害だと思います。

そういう人たちに向けた言葉ではなく、そういう人たち見て〈「嫌悪感」と「疎外感」を感じる自分自身に見えてきた問題〉をテーマにしました。

「疎外感」の根っこの一つに悔しいと言う思いもあります。その悔しいが勝他の心ではないかとおもいます。嫌悪感を感じる理由は他者の中に自分を見ていたからです。

自分だけ取り残されていっているような、また自分だけが地べたに這いつくばって生きているような「疎外感」正直な感情は「悔しい・負け惜しみ」です。

「いいねシステム」の弊害として疎外感と孤独感があり、現代はより一層孤独を感じやすくなっているのではないかとも思います。

そういうような話しをした時に「承認欲求とか有名になりたいという思いを否定されたくない」とおっしゃった方がいますが、本能でなくせるものではないですし、無くすことが目標でもなく、私にはそういう欲があるとしっかりと見据える必要があると思います。

「無くそうとする(克服)」でも「開き直る」でもない向き合い方を聖人は生きられたのではないでしょうか。

 

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