世自在の生2−分からないと投げ出さない。分からないと認める勇気
第1号の繰り返しになりますが、私と仏教との出会いは「あなたは誰ですか」という言葉で始まりました。「あなたはだれですか」その問いかけこそ、阿弥陀仏からの問いかけであり、人生の根本課題であると教えて頂きました。
それに付属する言葉として、「どこから来て、どこかへ行く者なのか」ということがはっきりしなければいけないとも教えて頂きました。「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」、画家ゴーギャンの絵のタイトルにもあります。やはり、人間の持つ不安の重大要素の一つのようです。
「どこから来て」とは自分のルーツの問題です。 ①親が誰なのか、先祖はどんな人だったのか、10年位前だったでしょうか、家系図作りというものがはやりました。先祖はどんな人だったのかという問題です。②ここ数年ブームのようですが、前世はではどんな人だったのか、前生・前世の問題です。③自分の使命は何なのか。この三つが「どこから来て」の具体的問いです。どれか当てはまるものはあるでしょうか。
「どこへ行く」これは将来の問題です。④10年後どんな生活を送っているだろうか、老後は大丈夫だろうか、自分が死んだ後、子や孫の生活は大丈夫だろうか。こういう思いは誰もが抱える思いではないでしょうか。⑤死んだ後どんな世界に行くのか、極楽や天国、もしくは地獄に行くのか、生まれ変わるのか、それとも何もないのか。後生・後世の問題です。そして、⑥何を残していくのだろうか、自分は忘れないないだろうか。この三つが「どこへ行くのか」ということの具体的問題です。
六つの例を出しましたが、今回は前生・前世、後生・後世を問題にしたいと思います。
親鸞は「どこから来て」に関しては、存在の故郷涅槃からです。「どこへ行く」も涅槃へ行くと示されています。涅槃とは いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたりと親鸞聖人は示されています。色も無い、形も無い、心をつくしてもおよばない、言葉にもならないそれが涅槃です。だから何も無いということでなく、それでも涅槃は涅槃として在ります。といっても全く理解できないと思います。しかし、理解できないということが大切なんです。大雑把な言い方になりますが涅槃とは人間には理解できないということです。だから涅槃とは理解出来ないものがあるんだと人間に知らせるはたらきをもつわけです。
努力すればなんでも理解出来るという前提に私は立ちます。古代ギリシャのソクラテスは「無知の知」ということを言われています。「分からないということが分かった」ということです。「分からないと認める勇気」大切なことではないでしょうか。それは安直な諦めの心ではありません。分かろうと、もがいて、もがいて、苦しんで、はっきりと分からないと分かることです。それが正信偈「悉能摧破有無見」の教えです。
真実とは「いつでも、どこでも、誰でもがうなずく」ということです。反対に言うと疑う余地のないもののことです。そういう真実を信じずに自分の考えを信じる。前世、後世の問題で言うと、涅槃を信じずに、誰かの生まれ変わりであると思い込んだり、死後、何かに生まれ変わると思い込むことです。「自分にしか分からないんだ」とツッパることは、自分さえよければいい、分かる人さえよければいい、分からない人はどうでもいいということではないでしょうか。そういうものを真実と言ってよいのかという問題です。