私たちはどのような救いを求めているのでしょうか。
最近色々な宗教問題があり、数年前、ある人に、「人を傷つける教義であろうが、心の満足を得られて、その人さえ幸せを感じているなら、それはそれでいいではないか。」と言われた事を思い出していました。やはり、それはおかしいのではないかと思います。
人によって救われ方が違う、その人の信仰心や能力によって救われ方が違う。それでいいのでしょうか。
阿弥陀如来は全ての人が救われない限り自分は仏にならないという誓いを立てられています。阿弥陀仏自身共に同時に同じように救われていきたい、それが阿弥陀仏の願いです。
天神菩薩は普く衆生と共に浄土に往生したいと述べられています。
普く衆生と共に、全ての人と共に救われていきたい。共に同時に同じように救われていきたいそれが天神菩薩の願いです。
金子大栄先生が残してくださった言葉に「全ての人の救われる法において自身は救われ、自身の救われる法を身証して、全ての人の救われる道は見開かれる」とあります。
それは、全ての人と共に同時に同じように救われる教えによって救われたいという私の願いです。自分や、周囲の限られた人しか救われないのであれば、そんな救いはいらないという決意としても聞こえます。
宮沢賢二は「世界中の人が幸福にならないかぎり個人の幸福はない」と言っています。それもまた「ともに同時に同じように救われていきたい」という願いではないでしょうか。
そういった救いとはどういうことでしょうか。
真実の幸福とはどういうものしょうか。
私はそういった幸福や救いが必要なのでしょうか。
私はどのように救われていきたいのでしょうか。
私の願い、私の根源的な願い、それを改めて考えなければならないのではないかと思います。
執心と言われる自力の心は根深く、欲求に振り回されて見失ってしまいます。
私の根源的な願いをはっきりさせる。
それと重ねて、私の求める救い、私の願いとは何かはっきりと確認する必要があります。
さきほどの、金子先生の言葉は同時に、阿弥陀仏の心を述べています。阿弥陀仏の心は、摂取不捨の大慈悲の心です。言葉を換えると「えらばず、嫌わず、見捨てず」ということで、全ての人を救い遂げるということです。近代の言葉では「命みな生きらるべし」と教えられています。
それは、何かをすれば、いつか必ずといような、ニンジンを目の前にぶら下げる話しでなく、今、ここで、全ての人を救うという事です。今、ここで「命みな生きらるべし」と願いをかけられているわけです。長く生きなさいという意味でなく、それは光の命を生きているということです。
浄土真宗は弥陀の本願に開かれる念仏成仏の教えです。