6,往生浄土 —②牛の聞法」
仏法は聴聞にきわまるなりと蓮如上人はおっしゃられています。浄土真宗とは聞法に尽きる、聞法こそ要であるとおっしゃられています。聞法ということは前回書いたとおり法話を聞くだけではありません。お内仏(仏壇)のお荘厳(おかざり)を目で見ることも聞法です。お経を聞くことも読むことも聞法です。またお香の香りを頂くことも聞法ですし、お仏飯(お仏供)を食べる事も聞法です。
しかし、聞法とは聞いて終わりではありません。親鸞聖人は「聞思」ということを言われます。「聞思」とは「聞いて」「考える」ことです。聞法ということは「聞思法」なんですね。
よく「仏教は難しい」と聞きます、そう言われる人の中には「聞いたらきっとすっきりするだろう」「何かいいこと、いい心が起こるだろう」「納得の出来ることを聞きたい」と思って聞いておられるのではないかと思います。私もそういうつもりで聞いています。この悩みをどうにかしたいと思って聞いています。だから私も法話を聞いてもよく分からなかったということが今でも頻繁にあります。
また、こういう言葉もよく聞きます「こないだ法話を聞きにいってきた。聞いている時はなるほどと思ったけど全く頭にのこってない。仏教って難しいね。」このことについても私も全く一緒です。ノートに一生懸命書いても家に帰ったら頭の中は真っ白です。
7年ほど前に聞法会で席が隣になった御老僧に「話しの全部を分からなくていいんだよ。何か一言心に残る言葉があったら、それを一所懸命考えなさい。正直に言うと、私も、また、ここにいる他の人もきっと話をよく分かっていない。何か一言だけ持って帰りなさい。」と声をかけていただきました。
1時間や2時間の話しを最初から最後まで覚えるということは無理です。1時間どころか5分や10分の話しを一回聞いて覚える事も無理です。何か一言でいいのです。親鸞聖人は「聞思」と言われています。聞いて考える訳ですね。納得のいった言葉は解決しているので考える必要はきっとないのではないかと思います。納得がいかないから考えるのではないかと思います。納得がいかないということは私の考えと違う、私の思いと違う、私の生活と違うから納得がいかないと思います。ただ一言を聞き一言を考える。一歩一歩のあゆみです。「牛のあゆみ」とはきっとそういう意味で祖父は名付けたのだと思います。「仏道を歩む」とは、牛のように、ゆっくりゆっくり、しかし、確実に一歩一歩進むことです。だから、一言、一言欲張らずにゆっくりと考える。それが大事ではないかと思います。
最初の繰り返しになりますが、仏法は聴聞にきわまります。聴聞・聞法とは「聞思」です。「聞いて考える」ことです。一言を大事にして、考えて、生活を振り返り、自分の命を見つめ直す。そして新たに聞き直し、聞いたことを考えるこの繰り返しです。繰り返し続けることで聞法は生活となります。だから、ただ「聞法」と言わず「聞法生活」と言う言葉で現在まで受け継がれてきたのではないかと思います。僕もゆっくり聞法生活を続けていきたいと思います。そして、また、皆さんも聞法生活をしていただければと思います。聞法生活とは焦る必要なく、圧迫感を感じる必要もなく、ゆっくりと、ゆったりとした、一言、一言のあゆみです。