「世自在の生、1、かなしきかなや道俗の」
先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口とカレンダーによく書かれています。これは六曜という一日の数え方(暦)です。現在は月火水木金土日の七曜が世界的に主流の暦(曜日)です。
七曜はギリシャなどが発祥で平安時代に空海が日本に導入しました。六曜は中国発祥の暦で室町時代に日本に入ってきたそうです。六曜も七曜も暦ですので時間・日時を把握するためのものですが、吉凶判断の道具としても使われています。吉凶禍福きっきょうかふくの判断とは友引にお葬式をしないとか、大安に結婚式をするということです。七曜の場合は、諸説ありますが、神(創造主)が六日間で地球を創り、七日目に休息した、だから、世界的に日曜日は休みとされているという説があるらしいです。日本人的感覚で言うと仏滅でしょうか、神のご加護がない、ろくなことがないし家におろう、という感覚でしょうか。日曜日は空海の真言密教の解釈では、旅行は吉、契約、雇用は凶とされているようです。七曜にしても曜日によって空海が作った日本独自の吉凶があるのですが、日本では六曜ほどそのことを気にする方はいません。気にすると契約は凶なので日曜日に結婚式が出来なくなります。
七曜は旧約聖書に基づいて時間・日時を把握するために作成されたようですが、六曜はどうかというと博打打ちがゲンをかつぐために作ったというのが現在の主流の説です。赤口以外は全て出来た頃と字がかわっているそうです。たとえば仏滅ですが、本来は物滅と書くそうです。ですので、本来仏教と全く関係なく、いつのまにか仏滅と書くようになったそうです。友引は、本来共引きと書くらしく、元々は「勝負なき日と知るべし」といわれ、勝負事で何事も引分けになる日という意味らしいですが、いつのまにか友引と書くようになってしまい、葬式や法事をすると友を引くという意味にすり替わったそうです。葬式だけかと思ったら法事もダメだというのが正式らしいです。それを気にすると法事もできなくなってしまいます。だから六曜というのはとってもいい加減なものなんです。
親鸞聖人は和讃で
かなしきかなや道俗の/良時吉日えらばしめ/天神地祇をあがめつつ/卜占祭祀つとめとす
日の吉凶過福や占いによって自分の行動を決めるということは悲しいことであると言われています。教行信証では全ての占いは迷信であると親鸞聖人は一刀両断しています。
それでは、占いや吉凶禍福がなぜあるかというと、自分で何かを決めるということは人間にとって大きな負担・苦しみだからです。自分で決めるよりも占いなどにどうしたらいいか決めてもらった方が楽なんですね。博打打ちでさえ自分で博打を打つ日を決める事が苦しいから六曜を作り出してそれにたよってしまったんです。
しかし、決断の苦を軽減するために作られてきたにも関わらず人間が本来もつべき自主性を損ねていくのです。だから親鸞聖人は上記の和讃で「悲しきかな」と述べられているのです。
占いや吉凶禍福は便利なように見えて、実は生きる情熱を損ねていきます。だから占い吉凶禍福を鬼神きじんと日本人は呼んできました。鬼魅という言葉があるように魅力的なのです。その魅力に惹かれて、神様と思って近づくと神が鬼に変わり人間は鬼に食べられてしまいます。
正信偈に「在世自在王仏所」とあります、「自ずからおの世に在ると同時に、自みすから世に在る」無限なる力(縁)によって生かされている事と同時に自分の意欲・意志として生きたい。これが人間が本来持つ自主性であると記されているわけです。自主性とは自立の問題です。