自分の写真と向き合う
篠山紀信氏は「自分の撮ったお気に入りの写真と向き合って、なぜ自分がその写真を好きなのか考えなさい」と対談集の中で言われていました(出典明記しないといけないのですが、忘れてしまいました)。
自分の事を例にして、自分はどう自分の写真と向き合っているか述べます。
自分の特徴
私の写真は結構特徴的なようで、友人からは「誰が撮ったか知らない状態で見てもすぐに私の写真だとわかる」と言われます。
多分その理由は私の写真は空白が大きいということではないかと思います。
振り返ってみると写真を撮ることが好きだと意識をする前から、自分の写真は余白がおおい写真ばかりです。
本能的に余白の多い写真が好きなようです。
それが自分の欠点のような気がして克服しようとしていましたが、やはり自分は余白が大きい写真が好きです。
好きであるなら逆にそれを長所として伸ばしていくべきだと思いました。
余白が大きい写真にもきっといい写真と、よくない写真があるはずで、いい写真をもっと考えて撮っていくべきだと。
自分の源流
その一歩目としてなぜ自分は余白が好きなのか考えました。
やっと余白が好きな源流がみつかりました。
三つあって、
1、掛け軸をみる機会が多い
2、単旋律の音楽に触れる事が多い
3、「あそび」の大事さについて小学校の国語の教科書で読んだ
1、掛け軸や日本画も、色んなものがありますが、余白の大きいものが割と多いのではないかなと思います。
余白がないことも余白の使い方で、余白ということを考えることが日本の文化ではないかなと思います。
西洋画たくさん知っているわけではありませんが、余白もびっちり埋まっているものが多いのではないでしょうか。
2、単旋律というとグレゴリー聖歌とお経(声明)です。その僧侶でもあるので、後者に圧倒的に
触れる機会が多いのです。
どの音楽もきっと「間」が大事だと思いますが、単旋律はより「余白」と「間」の音楽ではないかと思います。
3、小学校の教科書で「あそび」が大事だと読みました。記憶にあるのは車のブレーキのあそびが、運転に幅を持たせるとか、生活の中で趣味などをもつと生活にゆとりがでるそういうような事が書いてあった気がします。
その文章がどのように自分の頭にインプットされているかというと、あってもなくてもよさそうなもの、それが「あそび」で、なくてもよさそうに見えるが、なくてもいいわけでなく、必要なものである。
その「あそび」が「余白」という言葉で自分に作用しているのかなと思います。
そのへんに私の写真は余白が大きい傾向にあるのかなと思います。
もう一つの好きなもの
写真は基本的に西洋文化なのではないかと思います。
まずボケという言葉に外国語の原語がなく、日本のボケがbokehとして外国では使われているそうです。
ボケは日本独特の文化なのだと思います。水墨画や、書道のにじみがルーツにあるような表現方法ではないでしょうか?
私はボケも好きです、こだわりを持ってボケ表現をつかってます。
まとめ
今回自分の事例にして、述べました。
自分の場合は構図に好みがあらわれているようですが、特定の被写体を取り続けるそこに自分の好みがあらわえている方もいると思います、一つのテーマに好みがあらわれているかたもいる、レンズにこだわりがあるかたもいると思います。
自分もテーマは2つあるのですが、それはまたそのうち書きたいと思います。
好みとしては書いたとおりですが、自分が一番こころがけていることは被写体の魅力を最大限に引き出したいということです。
こだわりとか好きなものは人それぞれです。自分の写真と自分を考えて知っていくと写真からそのことが明確に伝わっていくのではないでしょうか。
かと言って好みは変わることもあると思います。
その都度自分を見つめていくことが大事だと思います。
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