5,世自在の生ー③二尊を通して

 

 

「世自在の生3−二尊を通して」

 「宗教とは他の何かにたよることではなくして、たよる必要なき自己となることである。」安田理深師はこういう言葉を残して下さいました。

 今回はこの言葉を踏まえ依存(依存症)の問題を考えてみたいと思います。

 浄土真宗の大きな特徴の一つとして二尊教ということがあります。二尊とは阿弥陀仏と釈迦牟尼仏です。阿弥陀仏は法であり真実・真理そのものであるため実体はありません。実体のない仏様です。釈迦牟尼仏は人というか実体を持った仏様です。

 二仏は救主阿弥陀、教主釈迦として語り継がれてきています。どういうことかというと「阿弥陀に救われよ」、と釈迦牟尼仏は教えるのです。釈迦牟尼仏は「阿弥陀仏が必ず救ってくださる」と教えてくださるだけなのです。釈迦牟尼仏が私を救うのでなく、阿弥陀仏が私を救うわけです。だから浄土真宗の本尊は阿弥陀仏なんですね。釈尊は「阿弥陀仏に救われなさい、阿弥陀仏のもとに行きなさい」とおっしゃる、だから、阿弥陀仏を本尊として給仕し、阿弥陀仏の前に座るわけです。

 具体的には、お家のお内仏にお釈迦さんは祀られていないですね。それではお釈迦さんはどうでもいいのかというと勿論そうではありません。東本願寺では、門の上に部屋があり、そこに大経を表す釈迦三尊像が安置されています。それはどういうこというと、先ず釈尊の在す門をくぐって阿弥陀仏の在す本堂にむかう。門をくぐるということは釈尊に出会う、釈尊の教え大経に出会うことです。本堂に向かうことは阿弥陀仏に出会うということが示されているのです。釈尊の教えを聞き、阿弥陀仏に出会うという二尊教の教えが、本山にお参りしたときに無意識に儀礼(行動)として表されているわけです。

 正信偈に「如來所以興出世とあります。この如来は釈迦如来です、「釈迦如来が世に出興(お生まれになる)したまう所以(理由)は」という意味になります。そして「唯説彌陀本願海」と続きます。「唯一、阿弥陀仏の本願(お心を)を説くためである。」前後をくっつけると「釈迦如来は阿弥陀仏のお心を説くためだけに世に出てこられた、ただ、そのためだけである、他に何もない。」ということです。

 上記の通り、釈迦如来は「私があなたを救うから、こっちにきなさい」とは言わないのです。でも、私たちは「私があなたを救うからこっちに来なさい」という言葉に弱いです。実生活でいうと「いいがにしてやるから安心しなさい」「わしに任せとけ」という言葉です。そこに依存の問題があるのです。「わしに任せとけ」と言う人はだいたいうさんくさいですね。そのほとんどが騙そうとする人です。

 十三号からの題を「世自在の生」としてきました。再び正信偈ですが、「法蔵菩薩因位時、在世自在王仏所」とあります。「ある国王」が世自在王仏に出会って、教えを聞いて、法蔵菩薩に成ったという意味です。世自在王仏というのは「おのずから世に在り、みずから世に在りたい」そういう仏様です。おのずからというのは「おかげさまで」という意味です。しかし「おかげさまで」ということだけでは依存になります。「自ら世に在りたい」という自分の意志、そういう世自在王仏の姿に、「ある国王」が憧れ、法蔵菩薩と成られたのです。

 依存とは私の生きる力を奪っていきます。私は依存することによって生きる力を失っていくのです。冒頭に戻りますが、「宗教とは他の何かにたよることではなくして、たよる必要なき自己となることである。」ここに「阿弥陀によって救われた念仏者の姿」があります。

 ですから、阿弥陀に救われるということは阿弥陀にも釈迦にも依存することではないのです。

 

 

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