6,往生浄土 —①教えを頂く

 

 

「 往生浄土 —1,教えを頂く 」

 数年前に年輩の女性の占い師の方が「仏さんのためにお花をお供えしているのに、なぜお花をお参りする人の方に向けるのか。お花は仏さんの方に向けて供えるものだ」と、こうテレビで言われたそうです。どうでしょうか。

 パッと聞いた感じでは「なるほど」と思ってしまいそうですが、皆さんご存じの通り全くの間違いですね。やはり、お花はお参りの人の方に向けられていなければいけません。

 それは、お花は、私が仏様にお供えするのでなく、仏様が私にお供えして下さっているからです。仏様が私にお花(仏花ぶっか)を通して教えをお伝え下さっているからです。だから私達に見えやすいように置きます。

 灯明(ロウソク)もそうです。仏様が私に灯明を通して教えをお伝え下さっているのです。

 また、お香もそうです。香りによって教えをお伝えして下さっているのです。

 お経は読むという行為に見えますが、読むと同時に自分の声が耳に入ってきます。声を出すのは私達一人一人ですが、私の耳に入って来るときには浄土からの仏様の声として入って来ます。だからお経を読むことを、お経を頂くと昔から表現されてきたのです。ですので、お経を読むということは音として声として言葉として、仏様が教えをお伝えしてくださっているわけです。

 お内仏のお荘厳(お飾りとも言う)は全てがそうなのです。お内仏のお飾りとは仏様が私のために教えを示すためのものであって、私が仏様のために何かをさせて頂くということではないのです。ですから、お参りするということは仏様の教えを私が頂くということのほかにありません。目でお飾りを見、鼻でお香の香りを頂き、耳でお経や法話を聞き、口で食事を頂く。全身で教えを頂いていくことがお参りするということではないかと思います。

 ですので、お花などのお飾りは、私の思いや信仰心を仏様に伝えるための道具ではないのですね。しかし、冒頭の女性占い師はまさにそうなのです。どのように私の思いを仏様に伝えようかという視点しかないのですね。お参りの場を仏様に対する私の思いや信仰の篤さの発表会にしてしまっているのですね。それは、「仏様に気にいってもらおう」という心です。「しっかりと仏様や先祖のお世話をすれば仏様や先祖は私を気にいってくれる、気にいってもらえれば護ってもらえるはずだ。」これはこの女性占い師の方だけの問題でなく、私達一人一人の根深い問題です。「仏様はお願いするものでなく、感謝するものである。だから感謝のお参りをすれば益々私を護ってくれるはずだ」このようなお参りになっていないでしょうか。しかし、そうではなく、お参りするということは、徹底して如来の教えを頂き、自分の姿を問い、自分に出遇わせて頂くことが要ではないでしょうか。

 阿弥陀仏のお心は「選ばれず、嫌わず、見捨てず」のお心です。誰をも嫌わず必ず全ての人を護るということです。だから、私は何も心配せずに教えを頂いていくだけです。

 「先ず教えに出会って欲しい。教えに出会って、生命の本来の姿に還かえって欲しい、そうすれば、必ず、直ただちに眼前に浄土が開かれる」これが阿弥陀仏の願いであり、諸仏と成った先祖の願いであると先師は示されています。

 

 

牛のあゆみ目次     次ページ